03

私は、はたと、足を止めました。

どうやら右手のほうから私を見つめています。

それはこちらの気が付いたことを察知して、更に強く視線を送ってきました。

いよいよ視線は私を見つめたまま近づいてきました。

至近距離まで近づいてきたので、私はもう観念し、精一杯の笑顔を送ってみせ、

「どうしたんですか」

と、好奇な眼で私を見つめる雅美さんに、せめて私から話しかける作戦を挙行したのです。
「いきなり『どうしたんですか』ですか」
「あ、いえ、いきなりなんで」
「おひさしぶりです」
「三日前に電話でお話、しましたよ」
「でも、会ってないです」
「うん、まあ、そうですね、あの、ちょっと、、、」
こちらの言い分など我関せずといった感じで、私が最後まで言い終わるのを待たずに、雅美さんは、
「たまたま歩いているのをお見かけしたので、ランチでもどうかなと思って」
「え?ああ。そうなんですか、そ、そうなんですね、お昼ですしね」
朝比奈雅美さん。

私より七歳下。

私が朝比奈不動産のリゾート事業本部から東京本社へ異動して、さあこれから、と意気込んだは良いものの右も左もわからず、元来の引込思案で小さくおさまっていたところへ一番先に明るく話しかけてくれた人。

それ以来、雅美さんは、ことあるごとに私を誘ってくれたり、特に用事もないのに電話をくれたり、ソーシャル・メディアで既読になってから三分しか経っていないのに、何かあったのかと心配して電話してくれたりします。

私と違って雅美さんは、どんな場所へ行っても、どんな人と相対しても、引けを取らない光り輝くオーラのようなものを持っています。
「そう、ランチタイムです。近くにとびっきりおいしいオムライス屋さんを見つけたので、行ってみませんか?」
こう言って、雅美さんはキラキラと優しそうな二重の目で誘うのです。
「そうですね、オムライス、いいですね」と、ついつい、私はこんなふうに返答してしまうのでした。

はいはい、蕎麦をやめてオムライスですね。


こうして私たち二人は何日かぶりの再会をし、私は大事な大事なお昼の六十分間をオムライスのために、いや、基、雅美さんとのために時間を割くことになりました。
しかし、この日が境になって、私たちにとって避け難い試練が始まったのでした。

02

(二十六年後)
外はランチタイムが始まったばかりで私の人生も始まったばかりでしたが、外の空気は活気で満ちているのに私の気分は嫌気で沈んでいました。

真夏の通りには様々な人々が歩いていました。

まだ午前中の仕事に切りがつかず「あともう一社」と腕時計に目をやりもう一方の手に重いジュラルミンアタッシュケースを提げて営業車へ戻っていくルート営業っぽい人、徒党を組んでやっとお昼になったのだから「何食べる?」とガヤガヤ言い合っている制服のオバサン軍団、そして、左手にパソコンからプリントアウトした地図を持ち右手に大きなバッグを提げて「この道の筈なんだけどなあ」と首を捻っているオジサン。

立場や状況は違えども、今挙げた人たちには、その人なりに一生懸命さや活気、熱意がありました。
しかしそういう人々とかけ離れた温度差で歩く私は、そのどれにも当てはまりませんでした。私の人生は始まったばかり。

それなのに、まるで、深い深い海の底を這いつくばる蟹が太陽の光を求めることを諦めてここで一生を終える覚悟を決めた時、神様が硬い殻でその表情を窺い知れぬものにしてしまったように、私も昼休みだからと言って喜ぶでもなく、かといって、ひどく悲しむでもなく、無表情、沈鬱、空虚な顔をしていたんだろうと思います。だからせめて、ガラスとコンクリートでできた無機質な本社屋から、寂びた風情のある有機質な木造の蕎麦屋さんへでも行って、少しでもこの気持ちを和らげよう、そう思い、私は彼らの雑踏を避けるように歩きました。

おそらく蕎麦屋のあの女将さんはいつもの笑顔で迎えてくれる。

「いらっしゃい。いつものでいい?」

「はい、お願いします」

「冷たいの?あったかいの?」

「うう、冷たいので」

「は~い、山菜そば、冷やしで一丁!」

って会話が心地良いんだよなあ。

子どもの頃は苦手だったワラビやゼンマイも、今では抵抗がなくなってむしろお気に入り。

苦手だった理由は、子どもの頃、山菜採りに出かけたら藪から蛇が出てきて、ビックリして尻餅ついて、そのまま谷の川に落ちてしまった苦い経験がトラウマになったから。

おかげで骨折はするし体の至る所に切り傷は負うしで懲り懲りしたっけ。
そんなことを考えながら歩いていると、何かどこかで感じる好奇な視線。

それは建物のガラスで乱反射する太陽光に混じって一直線に私を射抜いてきました。

01

女は意を決したように何度も何度もチャイムを鳴らしたが、誰も出てこない。
そこで武家屋敷のそれを思わせる門の扉を押してみるもびくりとも動かない。
門の脇にある勝手口へ目をやる。
引き戸に手をかける。
ギギーッときしり音がして開いた。
体半分くらい開けたところでスルリと抜ける。
素早い動きで外を窺ったが通行人はいない。
引き戸はそのままに敷地内へ目をやる。
車が三台止まっている。
腰をかがめて近づきその中の一台に手を触れた。
その車の持ち主に心当たりがある。

中に誰も乗っていないのを確認してから屋敷を見やった。
屋敷はとても広く母屋と離れが廊下で繋がっていた。
音楽が聞こえる。
クラシック音楽のようだが何という曲なのかまではわからない。
しばらく耳を澄ませた。
離れから聞こえる。
そこへ向かう。
離れは平屋だった。
平屋とはいえ、また、母屋と廊下で繋がっているとはいえ、それは十分一つの家屋として機能を満たしているようだ。
立派な玄関までついている。
玄関ドアのノブに手をかける。
鍵はかかっておらずカチャと音がした。
履き物は一つも脱ぎ捨てられていない。
これでは中に何人いるのか見当が付かない。
しかし女は土足で玄関を上がった。
あの日あいつがしたように。
廊下の右手には母屋と隔てる箱庭が見えるが、距離があり植樹も邪魔をし母屋の様子まではよくわからなかった。
一方、左手には五つの扉が付いていてどん突きに一つの扉があった。
合計六つの扉。
どうも音楽はどん着きの扉から聞こえるようだ。
明らかに水周りとわかる二つの扉は省いて手近な扉から開けていく。

カチャ。だれもいない。
次の扉に手をかける。
カチャ。ここもいない。
いよいよ音楽の聞こえる部屋の隣へ。
カチャ。いない。
仕方ない。
あいつと話をつけるほかないようだ。
九十度体を回転させたその刹那、突然そのどん突きの扉が開いて男と鉢合わせした。

「誰だあ?、あっ!」

総毛立つほど慄いた。
向こうは向こうでポカーンと口を開けていた。
そしてやっぱり来たかという顔でニヤッとした。
しかも男はとぼけた声で、
「何しに来た?」
とまで言ってきた。
だから、
「決まってるでしょ」
と答えた。
「ここにはいないよ」
「嘘!」
「何しに来たと聞いてるんだ!」
「言わなくてもわかる筈よ!」
ドンと男を突き放した。
男は不意を突かれてヨロヨロと後ろに数歩後退した。
その隙に部屋の中を見回した。
入って左手に暖炉があってその前にゆりかごがあった。
いた。
赤ん坊に駆け寄った。
しかし、かがんだ拍子に後ろから腰を蹴られ、床に突っ伏した。
男は、
「ええい!」
と言って、そのまま女を赤ん坊から遠ざけるように暖炉の方まで引きずった。
女は上体を上げ、
「この子を返して!」
と、叫んだ。
しかし男は、
「うるさい!」
と言って、平手で女の頬を思い切り叩いた。
女はもんどり打って頭からドサッと倒れた。
自力で立とうと前かがみになって暖炉の縁に手をかけたとき、思い入り暖炉の中へ蹴り入れられた。
頭から突っ込みボーッと炎が上がった。
瞬時に髪の毛がジューっと音を立て燃え始めた。
袖にも火が移った。

「ギャー」

髪の毛がチリチリに燃えるのに時間はかからなかった。
しばらく悶えていたがそれでも女は四つん這いで暖炉から抜け出てきた。
その姿はまるで鬼に火炙りされる地獄絵巻を連想させた。
おでこには髪が何本かひっつき火ぶくれて目玉は焼けた瞼に覆われて左右別々をギョロギョロ彷徨っていた。
すでに何も見えていないに相違なく、袖に移った火は既に上半身を包まんとしていた。
男はそのおぞましい姿に腰を抜かして尻餅をついた。
が、すぐにハッとして、慌てて手近にあったソファクロスで女を覆い、布ごとフランス窓の外へ引きずり出した。
と、そのとき、布からただれた腕がにゅうと伸びてきて男の腕を弱々しく掴んだ。
「ひぃ~」
と、男は思わず叫んでしまった。
女は、
「あの子を、あの子を」
と、呪文のように繰り返した。
「だ、誰が、貴様なんかに。。。」
男は女を力の限り庭に放り投げた。
女が最期に発した言葉は、
「返、し、て。。。」
だった。

00プロローグ

「あ、お父さん帰ってきた〜、おかえり~」
「うん、ただいま」
「あなた、おかえりなさいませ」
「うん。ほら、おみやげ」
「うわぁ、ショートケーキだあ。おっきい、食べていい?」
「ちょっと待ちなさい。お父さんがお帰りになったばかりでしょ」
「ええ! だって~」
「あなた、夕飯になさいます、それともお風呂になさいます」
「そうだな、腹が減ったから飯にするか」
「はい、わかりました、支度しますね。じゃあ、ケーキは夕食を食べてからね」
「はあい。ねえねえ、お父さん、お母さんね、昨日からちゃんと筑前煮作って待ってたんだよ」
「そうか、お母さんのは美味しいからな」
「うん。お父さん、箱根、楽しかったね」
「この子ったら、箱根、箱根って五月蝿くて」
「へえ~、箱根、気に入ったか」
「うん、だって卵は真っ黒だし、湯気がモクモクしててさ」
「それなら、別に箱根じゃなくても・・・」
「だめなの! 箱根がいいの!」
「ねえ、こんな感じなんですよ」
「ハハハ」