《蝉が一匹、力無くジーと啼いた》

そもそも友だちの雅美さんから「気味の悪い手紙が父宛に届いた」と相談されたのがきっかけだったんです。雅美さんと手紙に書かれた所へ行くと、なんと頭が真っ黒焦げの死体を発見。更に、父静馬氏が雅美さんに「落とし前をつける」とメールに残し行方不明に。ここから私たちは静馬氏の行方を捜すことになります。その中で、26年前に起きた祖父重蔵氏の愛人“紀子”にまつわる事件と深い関わりがあることを突き止めます。26年前に一体何が?

16 紀子③(5W1H)

 店内の時計を見るともう昼。雅美さんはもし何か思い出したことがあったら電話をしてほしいと柿枝さん(念のため確認したらやはり柿枝さんでした)にお願いし、私たちは辞去しました。

 これで、寺岡支店長が紀子さんの自殺理由に関して『それだけは勘弁してください』と言った理由がわかりました。寺岡さんとしては、紀子さんが気が触れてしまったことや妊娠したことを、自分の口からはなかなか言えないということだったのでしょう。

 私たちはお昼を取りながらこれまでのことを整理しようということになりました。海水浴場の近くは混んでいるので、丘陵地のほうへ足を伸ばしました。ちょうど良い具合にオシャレなカフェがありました。入口の左右に白いペンキで塗ったウッドデッキがありそれぞれ二つずつテーブルが置かれていました。風の快い時期はここでゆっくりコーヒーを飲むとさぞ気持ち良いんだろうなと思わせる雰囲気で私も雅美さんも一目で気に入りました。店内に入るとウッドデッキ同様白を基調としたインテリアと暖色を基調とした照明が迎えてくれました。

 私は雅美さんに、
「まず、消えた仮説としては、『お妾さんの紀子って人が手紙の主ではないか』ということですね」
「そうですね。だからここ逗子に父は来ていないでしょうね」
「その社長の足取りですが、でもどうやら、二十六年前の出来事が大きく関与していて、それにまつわる場所へ行っているのではないかと私は思えてきました」
「ええ。ま、ほかに別の知らない秘密があったとしたら話は別ですが、
・紀子さんは祖父のお妾さんだった。
・二人の間には息子がいた。
・平成元年に紀子さんと息子さんは逗子へ引っ越した。
・紀子さんは三十歳前後で息子さんは五歳か六歳。
・祖父が寺岡さんに指示して住まいを提供した。
・その一年後に祖父が亡くなった。
・そして紀子さんの気が触れた。
・それから初台御殿へやって来て焼身自殺した。
・その時紀子さんは妊娠していた。
・残された息子さんは実家へ引き取られた。
こんな感じですね。補足ありますか」
「そうですね、こうやって列挙すると、いくつかわからないことが出て来ますね」
「というと?」と、雅美さんが聞くので、私は、
5W1Hです。例えばWHEN。それぞれがいつのことなのか。時系列できちんと並べる必要があると思います。2番目の子を妊娠したのはいつなのか。父親は会長ではないと思います、時期的に。だって会長は高齢だったし健康状態が良くなかったんですよね。それと、出産前つまり妊娠中に自殺したのか、それとも、出産後に自殺したのか。出産後ならその子どもは今どこにいるんでしょう。それとWHY。紀子さんの気が触れた原因。愛する人を亡くしたからといって気が触れるものでしょうか。中にはそういう人もいるかもしれませんが。。。あと焼身自殺の原因。なぜ初台御殿まで行って自殺したのでしょうか。気が触れて常軌を逸していたから?」
「確かにそれぞれ不完全ですね。マネジメントで言う7W2H1Gみたいですね」
「結局、私たちは分かっているつもりでも何一つ分かっていないような気がします。社長は今どこにいるのか。WHEREですね。何故何のために動いているのか。WHY。代々木八幡で見たあの男性死体は誰なのか。赤の他人でしょうか、まさか。偶然が過ぎますよ。手紙の主は紀子さんではないことはわかりましたが、では誰なのか。雅美さん家の周りをうろついているお婆さんは誰なのか。WHOが3人います。はあ。。。」

 それでも、全くわからない昨日までの状況に比べれば、少しではありますが真相に近づいて来ていることは確かでした。
 雅美さんは、
「まだあります。実家へ引き取られた息子さんは生きているのかいないのか」
 雅美さんにそう言われて、私はハッとしました。
「なるほど。。。」
「気になりますよね。感覚でしかないのですが、今回の父の件では、紀子さんがキーになっているように思えてなりません」
 改めて雅美さんが考え込んでそう言いました。そこで私は、
「そうですね。そんな感じはしますね。それに、なにかこう、色んなことがグジャグジャっとして、気持ち悪いですね。どうします?新聞記事を探して自殺のことを調べましょうか。あと、一筋縄には行かないと思いますが警察に聞くのも手ですね」
「ウチで自殺しているから、代々木八幡と同じ管轄ですね。あの仁科って刑事さん、教えてくれるかな」
「社長がここに来ていないとすると」
「あるいは。。。」
 雅美さんは、何を思っているのか、そう言ってからしばらくして、
「私、ちょっと紀子さんの実家へ行ってみようかな」
「え?どうやって?住所もわからないのに?」
 雅美さんはニコッと笑って、
「寺岡さんが知ってるかも」
 そうか!逗子の事情をよく知っていて、紀子さんにも息子さんにも会ったことのある唯一の人だったことをすっかり忘れていました。あのお腹、突けば何かが出てくる筈!
 雅美さんが支店に電話し、また待ち合わせすることになりました。これがまたしてもビンゴだったのでした。

15 紀子②(お爺さんお婆さんと柿枝さん)

 会長のお妾さんが、初台御殿で焼身自殺を遂げていたという情報は、雅美さんを動揺させるには十分な重みを持っていました。

 車の中で、
「やっぱり、お妾さんはいたんですね。それも社長ではなくて御先代だった」
 と私が言うと、雅美さんは、
「私は家のことを知っているようで、実は全く知らなかったのかもしれません」
 と、深く沈んだ声で答えました。
「しかたないですよ。雅美さんが生まれる前のことですから」
「昨日も言いましたが、私はてっきり妾の人が手紙を送ってきたんだと思っていました」
「ええ」
「ウチの周りで時々見かけるお婆さんもその人だとばかり思っていました。でも違っていました。彼女はだいぶ昔にウチに来て焼身自殺。そんな大事なこと、全然聞かされていなかった!」
「まあ、あまりペラペラ話す内容ではないし、いつしか秘密のような、、、秘密っ!」
 私はつい叫んでいました。でも雅美さんは冷静にそれを制して、
「いや、確かに秘密といえば秘密なのでしょうが、それは今回の秘密、つまり、父が落とし前をつけようとしている秘密とは違うと思います」
「違う?というと?」
「だって、もう一旦は、事件として恐らく報道されただろうし、お妾さんがいたということも家族に知られてしまったのだろうし。だから今更、父が動くほどの秘密ではないと思うんです」
「ふ~ん、なるほど、そう言われるとそうですね。雅美さんは秘密は別にあるんじゃないかと?」
「ええ、それが何なのかはわかりませんけれども」
「手紙の主と社長の二人だけがそれが何なのかわかっていて、社長はお妾さんの住むところへ来ていると・・・」
「今言ったように、手紙の主がお妾さんだと思ったので。でもその人はかなり前にウチで焼身自殺しているから、どうやら違うようです。父はここには来ていませんね」
「どうします?紀子って人の住んでいた家へ行きます?」
「ついでに行ってみますか。そろそろ着くみたいだし」

 寺岡支店長にセットしてもらったナビが目的地の到着を知らせたのは午前十時三十分の少し前でした。近隣のコインパーキングに車を入れ、目的地の周辺を歩いて人の気配があるところを探しました。程なくすると公園が見えてきました。若い主婦が子どもを遊ばせていたり、七~八十代の男女がベンチに座ってお喋りをしたりする光景が見えました。私は雅美さんに、
「あそこの人たちに聞いてみましょうか」
 と言ってみました。
「そうですね、聞いてみますか」

「あの、お話中、申し訳ありません、今少しいいですか」
 そこには楽しそうに話をしていたお爺さんお婆さんたちがいました。ところが急に声をかけられたものだから、一斉に全員が会話をやめて『ん?』という表情をこちらに見せました。こちらも一斉に見られたものだから、虚をつかれた格好でドギマギしてしまいましたが、ようやく雅美さんがその中の一人のお婆さんに、
「ちょっと人を探しておりまして、ご存知でしたら教えていただけませんでしょうか」
 と言うと、お婆さんは耳が遠いらしく、
「ナニ~?」と、要領を得ないご様子。
「教えるって何を?」と、その横にいたお爺さんがぶっきら棒に聞き返してきました。
「あ、あの、人を探していて、その・・・」と、雅美さん。
「人を探してる?」と、また別のお爺さん。
「誰を?」と、また別のお婆さん。
「だからあ、それを教えてほしい、ってことでしょ?ね?」と、最初のお婆さん。
「そ、そうなんです」と、雅美さん。
「そいで、あなたがたは?」と、ちょっとリーダー格っぽいお爺さん。
「だから、人を探してる人よ」、以下省略。
「いや、知り合いの者でして・・・」
「そんなもん、名前もわかんないんじゃあ、なあ」
「あ、あ、紀子さんという方なんですが」
「だれって?」
「紀子さん・・・」
「だれ?」
「の・り・こ・さ・ん、だってよ」
「ノリコサンって誰?」
「だからそれを聞いてるんでしょ、この人たちは」
「女かい?」
「典子はこの人よ」
「もう、アタシはマ・ツ・コ」
「あ、そうだったっけ、メンゴ、メンゴ、ハッハッハ」
「で?誰を探してるって?」
 帰ろうかと思いましたが、そこをグッと堪えて、
「二十五、六年前に、お亡くなりになっているのですが、紀子さんという方を・・・」
「亡くなっとるって?」
「じゃあ、ここにはいねえな」
「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ」
「いつだって?」
「だ~か~ら~、二十五、六年前だってよ」
「そんな昔のこと、ねえ」
「朝食ったメシだって覚えてねえもん」
「その頃、俺はバリバリだった」
「ウチもお父さんまだ生きてたわ」
「拓さん、あの人じゃないかねえ、いつだったかね、あれは」
「俺?誰よ。あれ、紀子さんって。ああ美人の!」
「ハハ、やだ。美人だって」
「俺も思い出した、思い出した、器量の良い人だったわ」
「マツコって誰よ?」
「俺にカミさんさえいなかったら、手え出してもおかしくなかったよ、な、ヨッさん」
「マツコじゃなくてノリコ!」
「よせよ、俺はカミさん一筋だから!」
「アッハッハ」
 兎に角、みんなで思いついたことを口にして、言いたいことが言い終わって、
「でえ?」
 と聞いてくる始末。
「あ、いえ、親しかった方はいらっしゃいますか」
「親しかったって、そんなもん、言えっかよ、な、ヨッさん」
「若い人をからかうんじゃないよ」
 雅美さんはそれでも勇気を振り絞って、
「親しかったというか、良く話すとか、挨拶を良く交わしたとか・・・」
「イヤラシイ意味じゃなくて、知り合いだったかってことだろ、わかってるって」
「なら、いいです」と、雅美さん。
「あたしたちは良く知らないけど、あの人なら良く知ってるんじゃないかしら?」
「誰よ?」
「ほら、あのスーパーの」
「馬鹿こけ!奴はこの前三回忌やったばっかだ」
「だから、奥さんのほうよ」
「ああ?」
「奥さんっ」
「ああ、奥さんのほうね。あそこは昔から配達してるからな、知ってるんじゃないか」
 やっと、聞きたいことが聞けるようになってきました。
「スーパーというのは、どちらに」
「バス停があるでしょ?あるの!あっちに。バス通りに出ると、バス通りわかる?」
「行けばわかるよ。あるから!その近く。で、あんたら何?」
 誰なのかは既に冒頭で伝えたので軽く無視し、
「わかりました。教えてくれてありがとうございました。行ってみます」
「気ぃつけてね」
「暑いから死ぬな」
 私たちは暑さよりもこの人たちのパワーにグッタリしてその場を後にしました。お爺さんお婆さんたちはまだ『マ・ツ・コって誰?』で盛り上がっていました。

 スーパーへ向かう前に、今は別の人が住んでいるであろう、かつての紀子さんの住まいに行きました。戸建ての一軒家でした。庭があり、物干し竿には大人や子どもの衣類が干してありました。玄関には車が一台、ママチャリが一台、そして小さな子ども用の自転車も一台止まっていました。親子三人で住んでるのかな。この時間帯はお父さんは働いて子どもは学校に行っているけれども、夜になれば親子三人が暖かい食卓を囲むんだろうなと色々思い巡らせるものがありました。紀子さんも子どもと二人でたまにしか会いに来ない会長のことを思って暮らしていたんだろう。二十六年前に何があったのか、なぜ紀子さんは子どもを残して自殺しなくてはならなかったのか。きっと雅美さんはそう思っているのでしょう。それとなく雅美さんを見やると雅美さんはどこか途方を見つめて寂しく立っていました。
「雅美さん?」
「え?」
「大丈夫ですか」
「あ。大丈夫です。スーパーでしたね、行きましょう」

 ヨッさん(多分)が『バス停からキョロキョロすればすぐに見つかる』というのでまずはバス停を探しました。ありました。果たしてバス停からほど近くの場所に「フレッシュ柿枝」はありました。郊外型のなんでも品揃えがしてある、駐車場が広い、ごくごくありふれたスーパーでした。私たちは車を駐車場に止め店内に入りました。レジのところに六十歳くらいの女性が恭しく「いらっしゃいませ」と出迎えました。来店客は一人もいないようでした。

 私たちは目配せをして、雅美さんが、
「あの、ちょっとお伺いします、今少しよろしいでしょうか」
「はあ、なんでしょう」
 女性は道案内かしらという眼で私たちを見つめました。
「昔ですね、このちょうど裏の道を入ったところに紀子さんという方が住んでいらっしゃったと思うのですが、紀子さんのことをご存知かなと」
 女性は、下の名で聞いてくるこの二人連れは一体何者かといった顔つきに変わり、
「この裏に?紀子さん?ええっと、今、生憎わかる者が出ていまして、申し訳ありません」と無難な答えを返してきました。
 雅美さんは少しだけ迷って、
「そうですか、朝比奈さんというのですが」
「朝比奈さん?、、、ちょっとわかりませんね、今、『住んでいらっしゃった』とおっしゃいました?」
「ええ、その方は随分昔にお亡くなりになっていて」
「ああ、そういうことですか、手前どもはよく配達であちこち回りますが、このあたりに朝比奈さんはいらっしゃいませんよ、、、昔というと」
「平成元年までお住まいだったんですが」
「あら、そんな昔ですか、そうすると、私しか知らないわね。朝比奈さんって方はウチのお客さんにはいなかったと思いますよ」

 万事休す。そこで私は、
「逗子北町◯丁目◯番地で。当時、三十歳前後で男の子と二人暮らしだったのですが」
「あら、じゃあ本当に近くね。う~ん。。。そう言われてもねえ。。。ん?それヤマザキさんじゃない?」
ヤマザキ。。。」
「ええ、そういう人だったらよくウチも配達してましたよ。普通の『山』に山冠の『嵜』。お店にもよくいらっしゃいましたよ」
「どんな方でしたか」
「どんなって。あの、調査か何か?」
「はあ、いえ、身内のものです」
「苗字もわからないのに?」
「ちょっと複雑な事情がありまして」
レジの女性はこの“複雑な事情”に何故か関心を催したらしく、
「ああ、それでえ」
 と妙に得心したようでした。雅美さんが、
「『ああ、それで』と仰ると?」
 と聞くと、レジの女性は、
「いえいえ、噂ですけれども、あの、本当に御身内の方ですか」
「はい、遠い親戚で」
「そう。なら申し上げますけれど。主人が三年前に亡くなったんですが、『あそこは日陰の家庭だ』って言ってたんですよ」

 ビンゴ。私たちはようやくきたと顔を見合わせ話を促しました。そんな雰囲気を察したのか、
「まあ、折角お出でになったんだから、お茶でも出しましょうね」
 と言って女性(店名からおそらく柿枝さん)は奥へ行って冷たい麦茶を出してくれました。
「で、その、紀子さんをお探しになっているのですか」
「ええ、どうしてもお伝えしたいことがありまして」
「そう。。。でも、それは無理ですよ」
 と柿枝さんはきっぱり言い切り、
「なんでも自殺なさったとかでねえ」
 と、さあ驚いたかと言わんばかり。それは知っていたことではありましたが、雅美さんは、
「え?そうなんですか!自殺を」
 と、少しオーバーなくらいに話に食い入ってきました。それを見て柿枝さんは、
「そうなの!ねえ、怖いわね。そんな感じの人じゃなかったのにい。山嵜さん、よくウチのお店に来てくれて、私も話好きだからよく立ち話をしちゃってね。明るい気立てのいい人だったわ。そんな人がねえ、あんなことするなんてねえ、わからないものねえ」
「あんなことと言うと」
「いや、なんでもね、ただの自殺じゃなくてねえ」
「はあ、どんな?」
「なんでも山嵜さん、どこかのお妾さんだったみたいよ」
「お妾さん」
 雅美さんの鸚鵡返しや共感の姿勢に、柿枝さんの口からどんどん出るわ出るわ、
「そう。その相手っていうの?その人の自宅へ行ってねえ、自殺しちゃったんだって」
「そうなんですか、なんでまた?」
「それがね。気が触れてたって話よ」
「気が?!」

 思わず雅美さんは声が上ずってしまいました。
「噂ですよ。その相手っていうのはね、なんでも東京の会社の社長さんらしいのよ。でも、その社長さんがお亡くなりになって。で、その社長さんの会社の人がご丁寧に知らせに来たらしいのよ。それからその人、気が触れてしまって、社長さんの家へ行ってね、自分で自分の服に火を付けて、ねえ、怖いわねえ」
「。。。」
 雅美さんは声にならない、相当の衝撃を受けている様子で口を固く閉じました。
「あと、これも噂ですよ、その人、妊娠してたみたいよ」

 静かに回る扇風機の音。軒先に吊るされた江戸風鈴の音。時折通り過ぎる車の音。柿枝さんは舌の調子が良くなって色々な話を続けていきましたが、私たちの耳から次第にその声は遠のいていきました。
 雅美さんが、我に返って、
「あの、それで、息子さんというのは」
 と聞きました。すると柿枝さんは、
「ああ、なんでも、実家の方が引き取っていったとか。違っていたらごめんなさい」
「その実家というのはどちら?」
「ううん、そこまではねえ。お茶もう一杯いかが?」

14 紀子①(逗子へ)

 逗子という所は神奈川県の三浦半島北西部にあって相模湾に面し湘南エリアの一部とされることもあります。JR横須賀線京浜急行が東京や横浜を結んでいて、鎌倉市葉山町横須賀市横浜市に囲まれた、首都圏のベッドタウンです。海水浴場もあります。三浦丘陵の西側にあたるので山がちな地形ではありますが特に高い山はなく鎌倉市葉山町とは尾根筋で分かれていて山上にも宅地が造成されています。地名については、そもそも逗子駅南側一帯の町丁のものでJR横須賀線の駅名に採用され、逗子村を含む7村が合併して町名に採用されました。地名の由来は三浦厨子城、延命寺延命地蔵尊を安置する厨子、役人である図師の住まいがあった、交通の要衝『辻』が転訛したなど、その地名の由来には諸説あるとされはっきりしていません。

 そしてこの逗子という土地は、この事件記録の冒頭に記した通り、朝日奈不動産創業者の重蔵氏が生まれ育った土地であり、人生の転換期となったところです。重蔵氏は自分の農地を宅地に転用して成功すると、次々に周辺にも手を伸ばし、会社勤めの時に培ってきた人脈を使い「あそこの重蔵が言うのなら任せよう」と多くの地主から信託され、一九六五年に大規模な高級住宅地も造成して町の発展とともに会社もどんどん成長していきました。そのような経緯で会社が管理する地所は数多くあったので、それらのうち一つを妾に与えて住まわせることは経営者にとっていとも容易かったのでしょう。

 私たちは、朝九時に品川駅から京浜急行に乗り新逗子駅へ向かいました。新逗子駅に着いたのは九時五十八分。朝比奈不動産逗子支店長の寺岡義昭氏はすでに駅へ来ており、社長秘書である雅美さんが突然やって来るというので明らかに緊張した面持ちで待っていました。電話では社長からの連絡はないとのことでした。

 寺岡さんは見たところ五十歳半ば程。着慣れたダブルスーツが少しくたびれ加減で、きちっと締めたネクタイから出る猪首は窮屈そう。見るからに首回りの寸法が合っていないワイシャツから余計なお肉がはみ出ていて、「普段はクールビズを口実に締めていないが今日は特別なのでネクタイをしてきました」と言わんばかりでした。“ハンプティダンプティ”を連想させるでっぷりお腹、オールバックになでつけた薄い髪、ハンカチで拭っても拭っても噴き出る脂汗(この脂汗は社長秘書という肩書きが掻かせているのではなく明らかに“朝比奈創業家の人間”という言葉の響きが掻かせているに違いありません)。あまり近寄りたくない風体ではありましたが、とはいえ、人当たりの良い印象を与える優しそうな目はいかにも不動産仲介の営業マンといった風情と風格を併せ持っていました。

 寺岡さんは私たちの荷物を代わりに持ちましょうと言ってくれ、
「初めてお目にかかります、寺岡です。えらい急なご連絡だったもので、、、」
「おつかれさまです、朝比奈です。で、電話でお話しした件ですが」
「はい、それはもう。壁に耳ありと言いますのでね、ここから少し行くとホテルがございますのでね、ご案内いたしますのでね」

 寺岡支店長に案内され、小さいけれども趣味の良いホテルの一室に通されました。このホテルは朝日奈不動産が開発した会員制のもので、社員が福利厚生の一環として利用できるようになっていますが、首都圏から近く海にも近いため人気が高くていつも満杯状態です。今日は平日だし午前中ということもあって朝日奈不動産の社員はいないとのことでした。

 部屋に入ると、寺岡支店長はボウイに飲み物を持って来るように指示して、
「私は、それはもう、現地社員として三十五年前に逗子支店へ入社し、以来ずっとここで働いて来ましたので、どんなことでもお聞きください」
「すると、寺岡さんは、ウチが管理している地所のことなら何でもご存知なのですね」
「はい、それはもう、会長の頃から可愛がってくださいましたので」
「会長? 寺岡さんは祖父をご存知なのですか」
「はい、それはもう、私を採用してくださったのは会長ですから」
「そうでしたか、私は祖父のことを詳しく知らないんですよね」
「ああ、そうでしょう、そうでしょう、、、それはもう、会長は、私が言うのも何ですが、先見の明をお持ちの方でした。この辺りが必ずや東京や横浜のベッドタウンになると確証をお持ちになって一気呵成に宅地開発されまして。結果はご存知の通りですよ」
「先見の明があったのは仕事だけですか」
「え?」
 雅美さんの質問に、寺岡支店長は少し虚をつかれしばらく雅美さんの出方を窺う様子で見ていましたが、突然ワッハッハとでっぷりお腹を抱えて、
「ああ、それはもう、朝比奈様の仰るのんは、コッチのことですか」
 と、左の小指を一本立てニタッと歯を見せました。私たちが曖昧な表情でいると、
「はいはい、それはもう、コッチのほうも明がございましたよ」
「へえ、どんな」
「え?はあ、それはもう、そうですね。。。でも、今日はその件で来られたのですか」
 私たちが黙っていると、
「まあ、いいでしょう、いいでしょう、それはもう、昔のことですしねえ。時効です時効。ワッハッハ」
「ワッハッハ」と雅美さんが寺岡さんの真似をして調子を合わせました。
「ワッハッハ。会長は昔、それはもう、新橋の料亭で、ある一人の女性と出会いましてね」
「新橋の料亭・・・」
「聞いた話ですよ、ええ。名前は何と言ったかな、確か紀子さんとか。偉い美人で」
「美人ですか」
「はあ、会長は週末になるとその人とちょくちょく会っておいでになったっちゅう話です」
「へえ、東京でですか?」
「はあ、そうですねえ。でえ、こっちへ、いつ頃だったかな、引っ越しておいでになったんは。あれはもう、平成元年か。天皇崩御されましてねえ、昭和の、その年だったと思います」
「それって、祖父の亡くなる一年前ですね」
「ああ、そうだそうだ、そうなりますな。だから、それはもう、えらい大変でしたねえ、その後が」
「えらい大変?」
「はい、それはもう、大変も何も、紀子さんが、、、ん?あの、ご存知ないんですか」
「私がですか?何をですか?」
「何をって、それはもう、その紀子って人、初台御殿で焼身自殺でしょ?」
「何ですって?!」
焼身自殺?!」
 私たちは口々に驚いて反応してしまいました。特に雅美さんはひどく動揺していました。妾が今になってガタガタ言ってきているという仮説が目の前で崩れてきました。
「あれ、ご存知なかったですか、あれ、こりゃ、余計なこと喋っちゃ・・・」
「あ、いえいえ、いいんです、教えてくれてありがとうございます」
「いやあ、これはもう、私としたことが余計なことをペラペラと。私が言ったっちゅうことはなにぶん、あの、、、」
「わかっています、どうぞ続けてください」
「ええ?続けるって。。。はあ、そうですか、ああ、もう、ここまで言ったらしゃあない、それはもう、私の知ってること、お話しまひょ。でも、くれぐれも、、、お願いできますか」
「承知しましたから続けてください」
「わかりました。それはこうです。会長とその、紀子さんとの間には子がありました。こっちへは母と子でお出でになりました。私は御先代から直々に、住まいなどの準備をしておくように言われまして、そのときにお子さんがいることを知らされました。一人なのと二人なのとでは間取りが違ってきますからね。それにいくらなんでも、妾、あ、失礼、そのような言い方は良くないですね、いくらなんでも、御先代だって泊って行かれることもあるだろうから粗末な物件は用意できません。それなりに立派な物件を用意しました。もちろん、家具だの生活の必需品だのも揃えました。お迎えにも行きました」

 沈黙が流れました。
 雅美さんが目をつぶってじっと聞いていました。
 寺岡さんはばつの悪い表情でふうふうため息をつき一生懸命脂汗を拭きうつむき加減でじっとしていました。
 私はそれまで黙って横で聞いていましたが、
「いくつかお聞きしたいのですがよろしいですか」
 と尋ねてみました。
「はあ、それはもう。何でしょう。。。」
「お子さんがあったと仰いましたが、どのような?」
「はあ、どのようなって、それはもう、五歳か六歳か、そのくらいで、利発な坊ちゃんでしたよ。端午の節句には御先代が立派な兜をプレゼントされて、いたく喜んでぇ」
「男の子なんですか、その坊ちゃんは今もこちらに?」
「いえいえ、それはもう、子ども一人で生きてくのんは土台無理ですわ。紀子さんの実家の人が引き取りに来ましたわ」
「実家というのは、どちらですか」
「それはもう、そこまでは私も承知していません。申し訳ありません。近所の人のほうが詳しいんじゃないでしょうか。なんなら近所の人に聞いてみまひょか」
「いえ、そこまでは結構です、ありがとうございます」
 私は、最後にどうしても気になって聞いておきたいことがありました。
「最後に、なぜその紀子って人は本家まで行って焼身自殺なんかを?」
「それは。。。」
「それは?」
「それはもう、いやいや、それだけは勘弁してください。私の口からはもう。。。」
 それまで人当たりの良さそうな眼が、きつく豹変したのを私は見逃しませんでした。とはいえ、この人から一気に全部を喋らせるには、あまりに早急過ぎるのかもしれません。寺岡さんの顔には喋り過ぎたという反省の色がかなり色濃く浮き出ていて、気持ちにブレーキをかけているようでした。私は雅美さんに目配せし、
「支店長、今日はどうもありがとうございました。もし何か思い出されることが出てきたら、ご連絡くださいますか」
 雅美さんが自分の名刺を寺岡支店長に渡しました。
「これからどうなさいます?」
 と寺岡さんにそう聞かれて雅美さんは、思い出したように、
「その人が住んでいた所へ行ってみたいと思います。住所、おわかりになりますか」
「はあ、それはもう、では、車のナビをセットして差し上げましょう」
 寺岡支店長は車のナビに目的地をセットし、自分は駅からバスで支店に戻ると言うので、私たちはホテルから一旦駅へ向かいそこで支店長と別れました。

13 静馬の失踪

 社長が出張に出て一週間経った日の夜、雅美さんは私を夕食に誘ってくれました。渋谷にある担々麺がとても美味しい小さなお店でした。
「ここは担々麺が美味しいんです」
「そうですね、けっこう痺れますね、舌が」

 ただ単に食事をするためだけに私を誘ったのではないことはわかりきっていました。いつもなら理由もなしに私を連れ出す雅美さんでしたが、今日に限っては何か勿体ぶった理由をくっつけていたからです。私はあらかた食事が終わってテーブルが片付いたころを見計らい、聞いてみました。
「雅美さん、様子が変ですよ」
 雅美さんはどんよりした眼をして、それにははっきり答えず、
「ここ数日、色々なことがあって、ご存知と思いますけど。ちょっと整理したいなと思って、ごめんなさい」
「いえいえ、いいんですよ、色々ありましたよね。話の整理というと」
「父がどこかへ行って帰ってこないんです」
「出張じゃないんですか」
「ええ」
「ええって!」
「実はあの日、二人で代々木八幡へ行った日、父は私にメールを一通送っていたんです」
「え?メール。いつですか」
「夕方の五時過ぎでした。『落とし前をつける』って書いてありました」
「『落とし前』。。。それだけですか」
 私はできるだけ言葉を鸚鵡返しし、雅美さんが先を続けやすく話しやすい配慮をしました。こういうときは傾聴に限る。
「ええ、『あることで家を留守にする。落とし前をつける。お前は細かいことは知らなくていい』って、そういうメールでした」
「『細かいことは知らなくていい』ですか」
「ええ。私はてっきりあの手紙のことかと思ったんです」
「確かに。タイミングがタイミングですからね。ちょっと待ってください、でも社長、あの手紙のことは」
「知りません。見せてませんから。だから変だなって」
「確かに。どこへ行くとか書いてありましたか」
「いいえ。だから、また別の『落とし前』があるんじゃないかと思ったんです」
 私は雅美さんの様子をさりげなく窺いながら、
「雅美さんは、あの手紙と社長の言う『落とし前』は同じことだと」
「直感ですけどね、何故かはわからないけれども、タイミング良く、あの手紙の主に会って落とし前をつけに行くと言い出した・・・」
「でも、社長はあの手紙を読んでいないのだから、代々木八幡へ行く筈はないですよ」
「ええ。あそこへは行っていないでしょう。ただ、手紙の主は父が来ると思っていた筈です」
「あ、そうか、そうなりますね、、、で、人が一人殺された。社長の身代わりに誰かが?」
「可能性はゼロではないと思います。逆に、手紙の主が誰かに殺されたのかも」
「う~ん、ちょっと待ってください、いずれにしても、社長があそこへ行く可能性は限りなくゼロ。そうなると、場所を知っているのは?手紙の主と餓鬼、、、」
「単純に考えればそうですよね」と、雅美さん。
「あの死体はそのどちらかってことですか」
「そうかもしれません。あと、もし仮に、ああいった類の手紙が過去に父に届いていたとしたら」
「あの手紙がですか?社長に?」
「はい、父はどうしたでしょう」
「『どうしたでしょう』って」
「もし届いていたら、代々木八幡は落ち合う場所として毎回使われていたと思っていいんじゃないかなって」
「そうすると手紙の主、餓鬼、それに社長がいたかもしれないと。。。雅美さん、結論を急いでも良いことないですよ。だって、社長はあの手紙を読んでいないんですよ。場所を知っていてもあの日時に行く訳ないですよ」
「となると、父は落とし前をつけにどこへ行っているのでしょう」
「それがわかれば・・・」
「私は、妾が今になってガタガタ言ってきているかもしれないと言ったの覚えてます?」
「ええ、そう仰っていましたね」と、私はまた鸚鵡返し。そして、
「まあ、手紙の主=妾だとすれば、場所は三つ考えられますね。一つはいつも落ち合っている場所。二つ目は理由はともかく代々木八幡。手紙には代々木八幡の例の場所でって書いてありましたからね。三つ目はお妾さんが住んでいる所」と付け加えました。すると雅美さんは、
「そうなりますね。一つ目は二人にしかわからないから探しようがないですね」
 ん?探そうとしてる?
「場所の可能性はこれでいいとして、そうするとというか、今度はあの死体ですね」
「男性でしたよね」と雅美さんは言うと、途方を見つめ肩をがっくり落としました。
「雅美さん、もしかして、あの死体、社長だと?」
「え?いえ、そんなこと。手紙を見ていないのに父があの日あそこにいるわけがないと思います」
「そうですよ。変なこと考えないでくださいね。きっと社長は三つのうちのどこかへ行っているんですよ」
「お妾さんが住んでいる所なんですけど。その人、どうやら逗子に住んでいるようです。父は今逗子に行っているんじゃないでしょうか。逗子へ行ってみて・・・」
「ちょ、ちょっと待ってください。も~せっかちなんだから。手紙を読んでいないのだから社長は別件で動いているんですよ。わかりませんけど。ところで、社長は何故か偶然にも同じあの日に雅美さんに落とし前をつけると言ったまま帰って来ない。どこへ行ったのか、逗子なのか。その日はお妾さんは代々木八幡にいるのだから会えていない。社長、今でも探していらっしゃるんじゃないでしょうか」
「事情が事情なだけに、父は私になかなか連絡しにくいと」
 雅美さんの気持ちはもう、手紙の主=妾で決まっていました。
「ここにいても埒があきません。私は父を助けたいんです。いっしょに逗子へ行ってもらえませんか」
 雅美さんはもう居ても立っても居られない様子。またあの眼で私を見つめます。
「もう~、すぐそういう目で見るんだから。。。あの死体が誰なのか結局わからずじまいですが、、、もう~、すぐに帰って来ましょうね」
「実はね、私たち、明日から出張ってことで社内手続き済ませてあるんです。交通費の精算もしなくていいです」
 流石、社長秘書。

12 夢

「なんだお前は?」
 名乗ってもピンとこないようだった。だからあの時の話をしてやった。すると、真っ黒焦げの顔はまさかこの俺が目の前にいるとは想像できなかったらしく激しく動揺する仕草を見せたが、すぐ我に返り大きくため息をついた。
「なんだ、今更ノコノコと、何の用だっ」
 顔は苛立たしげに言葉を吐き、細かく貧乏揺すりを始めた。
 茂みで鈴虫たちが大合唱をしている中、蝉が一匹だけ力無くジーと啼いた。
 顔はふとそちらの方に気をそらせた。ちょうど良い具合に顔が後ろを向いた。今だと思った。石で頭を思いっきり殴った。ビーンとのけぞり膝からガクッと落ちた。次に腰、肩の順でペタンペタンと畳まれるように崩れていった。正座してひれ伏すような格好になった。血がこちらに飛沫しないように持ってきた新聞紙を広げて肩から上に被せ、もう一度同じ所を目見当で殴った。衝撃で背中がビクンと飛び跳ね両腕がビクビクッと痙攣したが、やがて止まり動かなくなった。
 勝った。俺はとうとう勝ったんだ!うお~!
 叫んだ自分の声に驚いて、ぐわっと上半身を起こした。夢か。酷く汗を掻いている。窓の外を見た。湿度の高い空気によって膨らみおぼろに照らす月が光を部屋へ注いでいた。光は青白く、部屋全体をあたかも水槽であるように水の中に沈めていた。喉の渇きと息苦しさを覚えバスルームへ行った。水を一息に飲み干し汗を拭った。不思議と手は震えていなかった。鏡を見た。そこにはこの世の者と思えぬ忿怒の顔があった。それが自分であることに己ながら驚いた。

11 黒衣の老婆

「あんたは、あんたは、」と、背後からしゃがれた声を絞り出すように声が聞こえた。気になって振り向くと、暗がりで良く見えなかったが老婆が俺を見ていた。老婆はもっと近くで俺を見ようと近寄ってきた。そしてまた「あんたは、ああ」と言ってきた。このクソ暑いのに真っ黒の和服を着ていた。
「あの、すみませんが、どちら様でしょうか」
「お前は、耕太だね」

***

 初台御殿を仮の住まいにし始めて三日目、事件から数えると四日目の夜、雅美さんが残業で帰りが遅れるというので、私が一人で雅美さんの離れの居間で読書をしていると、相変わらず猜疑の目を隠そうとしない郁さんが紅茶を持ってきてくれました。でも、この時は何かモジモジして、
「あら、置時計の位置がずれているわ。直さなくちゃ」
 とか、
「部屋、寒くないですか、エアコンの温度を一度だけ上げましょうか」
 とか、
「やだ、こんなところにキズができちゃって」
 と、椅子の脚をナデナデしたりして、なかなか部屋を出て行こうとしません。私は自分が郁さんにとって招かれざる客だということはわかっているので、バツの悪い気持ちで、
「このアールグレイ、とてもおいしいですね」
 と、見当違いのお世辞にしか聞こえないような台詞をつい言ってしまいました。すると、郁さんは、会話の糸口を見つけたと言わんばかりに、
「あら、気に入ってくれましたか」
 と、急に明るい顔をし始めました。そして、
「あのお、少しよございますか」
 と、聞いてきました。
 キタアー(゚Д゚;)! きっと、私が雅美さんとどういう間柄で、どれだけ悪い友人なのか、根掘り葉掘り聞いて、金輪際関わらないでくれるなと言ってくるに違いないんだと、思わず身構えました。だから恐る恐る、
「はあ、なんでしょう」
 と聞くと、郁さんは私と向かいのソファに腰を半分だけかけ、しきりに割烹着の裾を払っていました。言い出せない、何から話せばいいのかわからないといった表情でしたので、
「何かあったのですか」
 と切り出してみました。しかし、郁さんから出てきた言葉は思いもよらないものでした。
「旦那様はどちらに行かれたんでしょうかねえ」
 郁さんは代々木八幡の忌まわしい事件のことはニュースなどで知っていても、手紙のことも、私たちが第一発見者だったことも知らないはずです。私は戸惑いました。郁さんが朝日奈家の人間ではない私に社長のことを聞いてくるとは全く想定していなかったからです。とりあえず私は、当たり障りのない受け答えをしました。
「ああ、そうですね。出張なんですよね?私はただの事務職ですからそれ以上の詳しいことは・・・」
「あ、いやいや、そうでしょうねえ、そうでしょうねえ、それだから雅美さんもお客様をお招きになって寂しさを埋めようとしていらっしゃるんだと思います。はい。ねえ。ええ。ただ、私が言いたいのはそういうことではなくて・・・」
 切れてしまうのではないかと思うほど強く郁さんは爪で割烹着をしごいていきました。
「というと?」
「はあ、ここ何日か変でしてえ、いえ、いえいえ、別に、お客様は雅美様のご友人ですから、そのことではないってことを申し上げたかったんです」
 人は自分が相手にどう思われているか的確に察知できると言います。郁さんは、私が自分からよく思われていないと思っているんじゃないかと気を利かせてくれた。だから『そのことではない』と言ってくれた。じゃ、『ここ何日か変』というのは?
「ああ。ありがとうございます。しばらくご厄介になります。で、変と仰いますと?」
「はあ、あのお、私・・・」
 今度はいきなり顔を上げ、分厚いメガネから出目金みたいな目がウロウロ泳ぐようになり、
「何か気持ち悪くて・・・」
「何か変で、何か気持ち悪い、ですか」
「はあ、誰かに見張られているような・・・」
「誰かに?」
「ええ。一昨日なんですけど、醤油が足りないので夜、スーパーへ行こうと思って勝手口から外に出たんです。左手に下り坂がありますでしょ?駅とは反対側の。あっちの方で誰かが喧嘩していたんです」
 そう言って郁さんがつくづく私を見つめました。私は見つめられてつい目をそらしてしまい、
「そうなんですか、物騒ですね。酔っ払いが大声を出してただけじゃないんですか?」
 郁さんは、自分をバカにしちゃ困るといった顔をして、
「いえいえ。その時は私も怖いし、早く買い物して早く帰って来ようと思っていたのであまりよく見ませんでしたけどね、喧嘩をしていたのはお婆さんと若い男の人だったんですよ」
 郁さんはおかしいでしょ?と言いたげな眼で私を凝視しましたが、私はそんなことにいちいち不審がっていられないのではないかと思い、
「はあ。威勢の良いお婆さんですね」
 と受け流しました。でも郁さんは、
「違うんです。威勢の良かったのは若い男の人のほうだったんです」
 なんだ、じゃあ普通の酔っ払いか何かなんじゃないのかと思いましたが、あまりにも郁さんがギョロ目で見るので、
「何か不審なことでも?」と聞いてみました。すると、郁さんは、
「その若い方の男の人、泣いてるみたいで、何かを叫んでバーッと走っていっちゃったんです」
「泣いてたんですか?」
「そうなんです!何しろこの辺って夜は街灯も暗くてよく見えないでしょ?スーパーから戻って来た時に、もう一回、恐る恐るその坂の方を覗いてみたんですけど」
「覗いてみたら?」
「誰もいなくて・・・」
「・・・。じゃ、いいじゃないですか」
 郁さんは私がそんな風に言うので何かもどかしいような悔しいような顔をして、
「それだけじゃないんです。そのお婆さんなんですけどね、あの時と同じ人だと思うんですけど」
「あの時と同じ」
「ええ、昨日の朝ここに来るときにまたいたんですよお。誰だろうと思ってそれとなあく見たんですけど腰が曲がっていて顔がよく見えなくて。でも普段ここいらでは見かけないから近所に住んでる人じゃないわ」
「はあ。郁さんは近所の人ではないお婆さんに二日連続して遭遇しているんですね」
「そうなんです!嫌でしょ?喪服みたいな着物着てて」
「まあ、疑おうとすればどこまでも疑えるものですからね。そうそう、見張られているような気がするって」
「実は、昨日の朝にそんなことがありましたでしょ?そのあと、お昼くらいに郵便屋さんが来て。アタシしか手が空いていなかったから正門で対応したんですけどね、その時にまたあのお婆さんがちらっと見えたんですよ。通りの反対側で立ち止まって巾着の中を何かモゾモゾさせているんですけれども意識はこっちへ向いてるっていうか。わかります?あれ、明らかにウチの中の様子を気にかけている感じでしたよ、もう怖くって」
 郁さんは、言うこと言ってスッキリしたご様子でホッと肩の力を抜いたはいいものの、眼だけはギョロギョロし続けていました。
「この話は、もう雅美さんに?」と私が聞くと、郁さんはまだだと言いました。私は、
「余計な情報はあんまり雅美さんに伝えても仕方がないと思いますので、この話は私から伝えておきますね。郁さんは気にせずいつも通りにしていてください」と、言いました。

 翌日、仕事が終わって初台御殿へ向かい、勝手口の裏門に面する道を曲がると、例の下り坂がありました。喪服みたいな着物を着たお婆さん。。。私はふと立ち止まってしばらくその方を見ていると、その時、
「おつかれまさです」
 と雅美さんが後ろからポンと声をかけて来ました。
「ああ、びっくりした~、雅美さん、今お帰りですか」
「はい、少し遅くなっちゃいました」
「あ、そうなんですね」
 私は、郁さんから聞いた話を雅美さんにまだ言っていませんでしたので、このタイミングで言おうかどうしようか迷いましたが、雅美さんが仕事の愚痴を並べそれに聴き入るうちにいつしか放念して言いそびれてしまいました。残念、あの時、雅美さんに報告しておいたほうがよかった。というのも、郁さんだけでなく雅美さんもたびたび黒衣の老婆を目にすることになったからです。

10 初台御殿

 時計の針が午前零時を跨ぎ、重力の作用で真っ逆様に下降していくかのように時間がどんどん過ぎていきました。私たちはいつまで警察署にいなければならないのだろう、明日仕事を休まなければならないのだろうかと心配しましたが、程なくして雅美さんと私は捜査を妨害する可能性が低いと判断されて一旦返されました。ただ、いつでも連絡が取れていつでも捜査に協力することを約束させられました。要するに警察の監視下にいろということです。「クロではないがシロでもないグレイだから大人しくしていろ」と、まあ平たく言えばそう言われたようなものなので、雅美さんはとりあえずは家に帰ることができ仕事にも出かけられるから良いが、「大人しくしていろ」の部分で今一つ合点のいかない顔つきをしていました。私はやっと解放されたので、ほっと胸をなでおろしました。そんな私を見て雅美さんは、
「ウチに来てとりあえずシャワーを浴びませんか」と提案してくれました。
「はぁ、そうですね、どうしよう、どうしよう」
「はい、こっちこっち」
 どうにも優柔不断な私を雅美さんは引っ張って行きました。

 タクシーで初台御殿に着いたのは夜中の一時半ごろでした。初台御殿は元々重蔵氏が使用していた母屋を中心に静馬氏の離れが廊下でつながっていますが、雅美さんが生まれ思春期を迎えると新たに雅美さん用の離れもこれまた母屋と廊下続きでつながる形で建て増しされました。つまり平屋の立派な母屋の両翼にこれまた立派な離れがドーンドーンと建っているわけです。静馬氏の離れ同様雅美さんの離れも水回り一式と玄関がついていて独立して生活する機能はついています。部屋は居間、寝室、客室、独立クローゼットと、まあ贅沢です。ただ雅美さんの離れへ行くには正門からだと遠回りになるのでタクシーは勝手口の前につけました。勝手口といっても堂々とした門を構えていて車の出し入れも容易にできる本格的な玄関として立派に機能しています。私たちはそのまま勝手口から入り、雅美さんがお手伝いの郁さんを呼び、軽くシャワーを浴びました。郁さんは、寝しなを起こされ仰天しながらも、私たちのために夜食を用意してくれました。そして、
「てっきり旦那様とご一緒なのだとばかり思っておりましたんよ」
「郁さん、どうして?」
 郁さんは、フルネームを山城郁子といいます。初台御殿のお手伝いさんの一人で雅美さん担当です。雅美さんが物心ついた頃からずっと身の回りを世話している古株です。歳は五十代後半といった感じでしょうか、身長は百五十五センチメートル前後で、なかなか膨よかな体型、髪はショートで軽くパーマをあて、いつも真っ白な割烹着を着ていて、度の強いフレームレスの眼鏡をかけています。極度の近眼らしく、「これでも薄型にしてもらってるんですよ」とはいうものの重そうなレンズ越しに見ると両目が金魚の出目金みたいに見えて滑稽に見えます。ただ、雅美さん担当として、見るところはきっちりと見ていて、
「今まで何をしていらっしゃったんですか。お帰りにならないので気を揉みましたんよ」
 と、私に鋭い一瞥をくれました。私がしどろもどろになっていると雅美さんは、
「うん、ちょっとね、いっしょにいたんですよ」
「さようですか、あんまり雅美さんに振り回されないでくださいね」
 と、まだ猜疑の目で見つめました。つまりこの言葉の裏には、(ウチの可愛い雅美様と一晩中どこをほっつき歩いていたんだ、まったく。関わりあってくれるな)と言う意味が隠れている訳です。私はまたしどろもどろになって、
「はあ、私は一向に、、、」
 と言いかけたとき、雅美さんは攻撃の的がこれ以上私に続かないよう、
「で? お父さんは?」
 と話題を変えてくれました。
「はあ、旦那様もまだお帰りにはなりませんで」
「へえ、そう」
 一瞬、雅美さんの目に緊張が走りました。しかしそれも本当に一瞬のことで郁さんが察知したかどうか定かではありませんでした。
「『へえ、そう』って。雅美さんは旦那様の秘書でしょに?」
「二十四時間秘書してらんないから。もうこの話はやめ。あ、もうこんな時間。郁さん、ごちそうさま」

 雅美さんが私に泊まっていけというのでお言葉に甘え、翌日一緒に会社へ向かいました。
 初台御殿から初台駅へ行く道すがら雅美さんはぼそりと、
「しばらく、ウチに泊っていってくれませんか」  
 と、言ってきました。
「え、私がですか」
「嫌ですか」
「いえいえ、嫌ということはないですけれども」
「お願いします。何かどうも不安なので」
「はあ、、、」
 こうして私は数日間という条件付きで初台御殿に泊ることとなります。